google-site-verification: google7308bec6a750d1dc.html G-N1CHSSTK4P G-7DJ1TX8PBX フラワーソングクラブ とひめゆり学徒隊「別れの曲」沖縄戦で亡くなった東風平恵位の学友橋本憲佳が亡き友に捧げる合唱曲
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ひめゆり「別れの曲」とフラワーソングクラブ
亡き学友・東風平恵位を尋ねて

橋本憲佳-高知大学教授

A東京芸大時代の顔写真・JPEG.jpeg

​東風平恵位・東京音楽学校時代
東京藝術大学音楽学部大学史史料室所蔵

東京音楽学校を戦前の昭和17年に繰り上げ卒業した橋本憲佳(後藤ー戦後に高知大学教授)は、かねてから母校(現・東京芸術大学)時代の学友東風平(こちんだ)恵位の行方を探し求めていました。​終戦から30年後の昭和50年、新聞誌上で親友の悲しい最後を知って初めて沖縄を訪問します。学友の足跡を辿る中で、東風平恵位が作曲した「別れの曲」がひめゆり学徒隊の生き残った人たちによって大切に歌い続けられていることを知りました。橋本はひめゆり学徒隊の方々の協力を得て採譜し、さらに混声四部合唱曲に編曲します。
​この時に、作詩者が太田少尉であることを知りました。しかし沖縄で尋ねても太田少尉のことを詳しく知る人は誰も居ません。太田と、心を通わせていた東風平もともに戦争中に亡くなっており、少女たちに「優しい少尉」さんとして知られた太田の出身地や出自は沖縄では解明できませんでした。
本土に戻った橋本は新聞紙上を通じて、太田少尉の存在を全国に問いかけました。その結果福島県郡山市が故郷であることが判明し、太田少尉は初めて軍人としてではなく、詩人太田博として自らを沖縄と故郷に位置づけることができました。
東風平恵位_0001.jpg

東京音楽学校で卒業を前に
した東風平恵位ー前列中央、
橋本憲佳後列左

フラワーソングクラブと追悼コーラス
30回定演.jpg

You Tube フラワーソングクラブ

昭和51年橋本憲佳が主宰する(高知フラワーソングクラブ第30回定期演奏会において、「別れの曲」を本邦で初めて演奏します。続いてひめゆり学徒隊最後の日にちなんだ6月18日、フラワーソングクラブを率いて橋本は沖縄を訪れ「ひめゆりの塔」の前で、東風平恵位とひめゆり学徒隊のために慰霊のコーラスを捧げました。

第30回定期演奏会における橋本憲佳の追悼歌
  学の道 共に歩みし君ははや
    御霊となりて 天翔けりゆく
  天翔ける 御霊よしばし降りたまえ
​    共に歌わん 君の御歌を


 ☆ 本ページは「フラワーソングクラブ50
   周年半世紀のあしおと」「第30回定期
   演奏会テープ」いずれも橋本知詠子氏の
​   ご厚意によります。
     ☆ ひめゆり平和祈念資料館は当時まだ建設
   されておらず、ひめゆりの塔が存在して
   いました。

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​  ​       Adatara  San

 

Pink Sugar
ひめゆり学徒隊・仲宗根政善の挨拶

「ひめゆりの塔」の前での慰霊のコーラスに際して、学徒隊を引率してひめゆりの乙女たちとともに、戦場をさ迷った仲宗根政善(琉球大学名誉教授)は、フラワーソングクラブをむかえて次のように追悼のことばを述べています。

「東風平先生、あなたの親友の後藤先生 (橋本憲佳)がただ今ここに立っておられます。後藤先生は三十年後に初めてあなたがここで最期を遂げられたことを知りました。
 先生の
指揮される高知市のフラワーソ
ングクラブの
方々は、あなたの「別れの
曲」を真心こめて
練習を重ねて、はるばる海をわたってこられました。
 そして別れの曲の歌詞
を作って下さり、皆様方を親切に世話し、生徒の皆さんから慕われた、太田少尉殿のご兄弟の方々も立っていらっしゃいます。
​ 東風平先生、どうぞ
今日はあなたのはっきりした大きな眼を見開いて下さり、先生方も生徒の皆さんも、どうぞ目開き耳を澄まして下さい。
 皆さんが最後
まで涙を見せながら歌われた「別れの曲」を歌い、御霊に捧げます。」
ひめゆりの塔_edited.jpg

​高橋文生蔵、『大琉球写真帖』関連資料、那覇市歴史博物館提供、
​昭和25年のひめゆりの塔、昭和51年にはまだひめゆり平和祈念
​資料館は完成していなかった。

混声四部合唱楽譜ー橋本憲佳編曲
楽譜相思樹の歌1.jpg

東京音楽学校親友の故東風平恵位の曲を橋本憲佳が編曲した楽譜 1/3 ​作詞者は太田少尉と記されて、名前「博」と出自は、当初知られていなかった。

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