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Miss Andersonに捧げた詩
ミスアンダーソンの着任
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1951年当時の
ミスアンダーソン

昭和10年9月にアイリーン・アンダーソン(以下ミスアンダーソン)が宣教師として赴任してきた。太田博の自宅は郡山市清水台78番地で、アンダーソンの住まいである宣教師館は同じ清水台95番地にあり、両者の距離は50メートルばかりの近距離だった。9月になりアンダーソンは35歳の誕生日(9月28日)を迎えていた。当時珍しい洋風白ペンキ塗りの宣教師館と外国人女性宣教師の着任は、新しい文化の香りを地域の小都市に伝える大きな力となったことだろう。

​当時太田博は郡山商業学校三年生で、母校の先輩である岡登志夫(丘灯至夫)の指導の下に詩作に励んでいた。

宣教師館 2011年の東日本大震災の際損傷し解体された

キリスト教と養父との葛藤

郡山商業学校時代の太田博

自宅が宣教師館に近いこともあり、太田博はミスアンダーソンの主宰するバイブルクラスにいつしか出席するようになった。しかし養父の恒吉は皇宮警察を退職した謹厳、厳格な性格でもあり、キリスト教との接触には極めて厳しい態度であった。一時は養子縁組を解いて実家がある茨城県銚子に帰そうとしたこともあった。
ミスアンダーソンは太田博の熱心な態度とその聡明さを見出して、英語と聖書について熱心に指導に当たった。その期待に応えて、低学年の日曜学校に際して太田博がミスアンダーソンに代わって指導に当たることもあった。

教会では太田博が郡山商業学校三年生のときから、卒業して銀行員となり20歳の徴兵検査を受けるまでの6年間の長きにわたった。

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昭和10年頃・最後列ミスアンダーソン、太田博・壁際に沿って前から三人目

徴兵検査と太田博
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郡山商業銀行本店(現東邦銀行郡山中町支店)

昭和13年郡山商業学校を卒業後、太田は地元の郡山商業銀行(現東邦銀行郡山中町支店)に入行した。毎日の銀行業務を終えて帰宅後に詩作に没頭するすることが出来たことは、詩人太田博にとって最も充実した時間であったことだろう。
しかし、昭和16年1月24日に既に満20歳の節目を迎えた太田博には、日本男子成人に等しく課される徴兵検査が待っていた。6月頃と思われる検査を終えた太田は、いずれは軍人として郷土や祖国を守る戦いに身を投じざるを得ない立場にあった。一方で、それはミスアンダーソンの祖国である米国と闘わざるを得ないことでもあった。
「ましろき卵」の【佳きあてびと―尊い人】
尊敬するミスアンダーソンの離日を知った太田博の寂しさをを写したものであろうか。

 


    ましろき卵
 
 淋しきときは ゆふぐれは
 ましろき卵  掌にとりて

 灯ちかく   すかし見つ
 春けき夢に  あこがるゝ

​ 佳きあてびとの おもかげを
 ましろき殻に祕めたればーー。

   蝋人形第十二巻五号
​      (昭和十六年五月)

 

ミスアンダーソンとの別れと献詩

太田博のミスアンダーソンへの心酔と逆行するかのように日米関係は緊張の度を加え戦争の足音が近づく中、軍国主義の風潮が吹き荒れ外国人排斥の機運が高まっていた。英米両国政府の引き揚げ勧告もあり、周囲の外国人が続々と帰国する中で、7月ミスアンダーソンもやむなく母国アメリカのイリノイ州に帰ることとなった。
養父との厳しい対立関係の中で、心安らぐ存在であったミスアンダーソンの離日は、太田博にとって何ものにも代えがたい人生の重大な岐路であった事が想像される。
昭和16年6月徴兵検査を終え自分自身が間もなく日本軍人として徴兵される立場にあって、敵性国家であるアメリカの婦人に対して献詩を行えば、見つかれば非国民、スパイ、売国奴とのそしりを免れない中で、ひそかに日記の末尾に童謡詩の形でのこされている。

 

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ミスアンダーソンが乗船した貨客船龍田丸。ウィキペディア庄司一幸氏「アイリーン・F・アンダーソンと福島県最初の母子ホーム」による。7月10日横浜出港、​7月23日サンフランシスコ到着

     先生をお送りする歌

   

​   ―深き薫陶を賜へる

                恩師アンダスン先生に捧ぐ

 

   六年間も住みなれた

   郡山からアメリカへ

   皈國(きこく)なされる先生は

   お心どんなにつらいでしよ。

 

   尊い救ひのイエスさまの

   十字架負って先生は

   日本のお國へはるばると

   渡って福音(みことば)宣べました。

   

   桜咲く國うつくしい

   こころをもった日本の

   子供のすきな先生は

   淋しくおもひなさるでしよ。

 

   燕はきっと來年も

   お家の軒端にかへります

   丁度いまごろ先生の

   元氣なお聲がきゝたいな。

 

   横濱みなとを船出して

   星のお國へ海の旅

   信仰あつい先生を

   神さまみちびきなさるでしよ。

 

《七月六日〈日えうび〉先生には当地最后の

 聖日なりしなるべし》          

       日記 「随想」から

戦後のミスアンダーソン

昭和22年、ミスアンダーソンは敗戦後の日本に再び戻ってきた。昭和16年に任務の途中で、日米開戦という未曽有の出来事に際して自らの意思に反して一時帰国せざるを得なかった悔しさを払拭するかのように、その活動は情熱的であり献身的であった。郡山・須賀川で日曜学校を再開するとともに、バイブルクラスを開設した。さらに、福島県内各地に幼稚園、母子ホーム、幼児教室や伝道所を開設するとともに、須賀川・郡山などの教会建設にも意欲的に取り組んでその完成に貢献している。自らの収入を投げうっての活動は、福島県内で20を超える施設に及んでいる。まだ、戦後の混乱期にあって自分が生きることに精一杯であり、幼児教育、介護や母子家庭への援助という福祉的考えが乏しかったこの時代に、一人率先して道を切り開いて来た姿は福島県のみならず全国的にも稀有な先駆者ともいうことができる。さらに、自らの後を継ぐ人々を育むために私費奨学金をつくり、80名を超す人々に援助の手を差し伸べ、多くの牧師や保母を育てている。昭和16年から途中6年間のブランクをはさみながらも、32年間にわたって身を粉にして一身を献身の道に尽してきたが、昭和41年帰国の途についた。これらの貢献に対して、昭和43年日本国から勲四等瑞宝章が授与されている。
 
☆​注:本稿は「アイリーンアンダーソン 
   宣教師の生涯と業績
 
       庄司一
幸氏著による

 

​昭和30年55歳​ 猪苗代湖にてバイブルクラスのメンバーとともに

帰国後のミスアンダーソン

アイリーンが長年日本で育てた人たちが、1990年代初頭にフロリダ州タンパのセントラルバイブルチャペルに彼女を訪ねました。 1992年頃にイリノイ州プロフェッツタウンに戻る前、彼女の近親者が近くにいることから、アイリーンと彼女の双子の姉妹であるアイネスはフロリダ州タンパに住み、そこで中央聖書礼拝堂に出席し、女性協力者と一緒に宣教師ワークショップで活動し、赤ちゃん用のキルトを作りまた宣教師のための他のプロジェクトも参加しました。

アイリーンの母親、アマンダ(ブルームクイスト)アンダーソンが彼女とアイネスと一緒にフロリダ州タンパに住み、99年7か月の長寿を全うしました。アイリーンは、親しい友人に一世紀の記念壽に達することを期待していると話していたという事です。 

90歳を超える高齢を迎えてフロリダ州からイリノイ州に戻ったアイリーンは、生まれ故郷に近いプロフェッツタウンにある『Prophets Riverview Good Samaritan』養老院に​入所して余生を過ごしました。

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Good  Samaritan Center の施設

とどかなかった献詩

太田博の出征前にミスアンダーソンがアメリカに帰国し、その間に太田が沖縄戦で戦死したこともあり、太田博の捧げる献詩はミスアンダーソンの手元には届かなかった。使命を果たした彼女は2005年3月7日104歳の天寿を全うして神に召されました。

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​双子の姉妹でともに眠るミス
アンダーソンの墓石
​左Inez 右Irene

Mizpah Cemetery

Henry County, Illinois, USA