屋 根
どこまでも
屋根は追ひかけてきた
なつかしい日本の屋根
瓦や茅葺やトタンや
そして明るい燈火(ともしび)
窓のそとで
どこまでも いつまでも
屋根は追ひかけてきた
しかしわれわれが船に乗ったら
屋根は遠くちひさくなるだろう
黙ったまゝ愛著絶ちがたい屋根は
切ない姿勢で見えなくなるだらう
なつかしい日本の屋根よ
あの母のやうにほのぼのと明るい
灯の下のたのしい團欒(まどい)を
わたしはなみだぐましく擁きしめる
ノート「剣と花」より
太平洋戦争下の昭和19年戦局は急を告げ、優勢な米軍の攻撃により日本と沖縄を結ぶ輸送路は米軍潜水艦と空爆の脅威により危機的な状況となっていた。グアム島が陥落し、沖縄にも米軍の上陸が予想されていた。守備力の増強を急ぐ軍の方針により、第79野戦高射砲大隊は他の部隊とともに、8月1日門司港から鹿児島経由沖縄へと向かった。輸送船団は潜水艦の攻撃を避けるため、ジグザグの航路をたどり、那覇には8月23日に到着した。鹿児島から出港するにあたり、船上から本土に最後の別れを告げる「屋根」と題する詩が詠われている。現役の少尉が戦線に向かう意気込みよりは、自らの前途を予感するがごとき哀切を帯びた表現が太田博の人間性を感じさせる。
生れざる眠りより
谷 玲之介
いまだ光茫は來らず
生れざる眠りに眠る
かしこにて星は死せるがごとし
かしこにて森は死せるがごとし
ああ極限を啓示せる苛酷よ
生れざる眠りよりわが眠(まなこ)めざめ
わが耳はきく
石の窓を吹きすぐる太古の風を
幼き靈魂ゆゑ
孤坐するはさびし
いづこよりか
光茫は來らざらむか
ノート「剣と花」より
那覇港に到着した大隊は第24師団に配属され、北部飛行場防衛を命じられた。飛行場周辺に陣地を構築して、来るべき米軍の攻撃に備えていた。10月10日突如米軍の空襲があり、北飛行場に来襲した敵機と高射砲部隊との初めての戦闘が行われた。
那 覇
慘禍なまなまし刧火の跡を見よ
茫々たる焦土
ために天日暗し
風に鳴るは燒け落ちたる電線
或は赤瓦崩れ累なりて
珊瑚石垣そゝり立つ
わが愛せし那覇よ
冷たき骸と化れる新嫁のごと
涙湧かざるゆえに
戎衣ひたすら 寒く
わが眦(まなじり)を裂けしむ
ノート「剣と花」より
この日の空襲では特に那覇地区が甚大な被害をうけ、市街地は灰燼と化し、那覇港は軍需物資や疎開民を運ぶための艦船をはじめ、備蓄されていた食料、武器弾薬等にも多大な損害を受けた。空襲の惨禍を目の当たりにした太田博の怒りの沸騰が、迫力をもって身に迫ってくる「那覇」の詩が、生々しく当時の状況をつたえている。この攻撃を受けて大隊の任務は、北部飛行場から那覇港守備へと変更され、多くの部隊が那覇周辺へと移動して、新たに陣地構築に取り組まざるを得なかった。戦時下の小隊長という激烈な軍務の合間を縫って、いくつかの詩作がノート「剣と花」に記されている。
野戦高射砲第79大隊第二中隊は、那覇商工学校に本部をおき、那覇港を囲むように安里、牧志、与儀、眞玉橋に高射砲陣地の構築を急いでいました。陣地構築は、土砂、岩石、コンクリートなどを資材とする土木工事であり、与儀の陣地に動員されたひめゆり学徒隊は太田少尉のもと、教科書やノートをなげうって勝利を信じてわが身の疲れも顧みずに作業に専心しました。少女たちが命令を待つまでもなく自らの工夫と献身で、見事に作業を遂行する姿を見て、彼女たちが自ずと生み出した叡智に太田博は共感と感動を覚え、ノートに「防空頭巾」と題した一篇の詩を記しました。この時の喜びが後に、「別れの曲(相思樹の歌)」の作詩につながっていきます。
☆注:野戦高射砲第79大隊は昭和19年
11月第三十二軍野戦高射砲隊司令
部(球部隊)の指揮下に入った。
防空頭巾
それぞれの創意が光り
いさゝかの隙もない
工夫が隱されてゐる
防空頭巾を被り
きみたちが
激しい律動の作業をつゞけてゐるとき
わたしは見出すのだ
ふかぶかと輝く叡智が
この戰ひの苛烈さを
はねかへし
勝ち抜く誇りに
馥郁と 薫ってゐることを
ノート「剣と花」より
未 完
敵既(すで)に目睫にせまる
『剣と花』
わがふるさとへ恙(つつが)なく歸れ
無名詩人は 南島の一角に
雲霞の如き 敵をむかへうち
衂(ちぬ)りたる剣を以て
生命と死の花を 描かん
ノート「剣と花」より
日本軍は圧倒的な米軍に沖縄南部に追い詰められ、敗色濃厚となった。軍人として命を終えても、詩人としての生きざまをせめて故郷に伝えたいとの太田の悲痛な叫びが「わがふるさとへ恙なくかえれ」に凝縮されている。制海、制空権を失った状況下では、海を隔てた故郷は遥かに遠く、詩作ノート「剣と花」が故郷の詩友の下に届くことは奇跡にも近い事柄であった。
生涯最後の詩集「剣と花」は途絶寸前の沖縄本土間の最後の便船にのり、米軍の攻撃にも遭わずに奇跡的に本土にたどり着いた。ノートは太田の願いと祈りを込めてからくも本土にたどり着き、「蠟人形」の編集者であった詩人大島博光(長野に疎開中)を通じて故郷の福島県郡山市・岡登志夫(丘灯至夫)の手許に届き、その後遺族に引き渡された。たまたま新聞社に勤務していた丘灯至夫の配慮により、終戦直前の8月上旬、40数篇のうち七篇の詩が地元の新聞誌上に紹介されている。しかしこの中には不思議なことに、ひめゆり学徒隊との邂逅から生まれた「別れの曲(相思樹の歌)」は含まれていない。学徒隊の少女たちが命を懸けて歌い継いできたこの曲と作詩者としての太田博を、まだ故郷の人々は知ることが出来ないでいた。
敗戦に伴い沖縄はアメリカの軍政下に入り、本土との間の交流はパスポート(渡航証明書)が必要なこともあり、通信と交通はごく限られたものとなっていた。戦後27年を経た昭和47年、長い軍政から解放されてやっと沖縄は本土復帰を果たした。この間戦乱を生き残ったひめゆり学徒隊の人たちは絶えることなく「別れの曲」を歌い継いで亡き友を偲んでいました。
沖縄の日本返還四年後の昭和51年、相思樹の歌の作曲者東風平恵位の東京音楽学校時代の学友である橋本憲佳が、自ら主宰する「フラワーソングくらぶ」を率いて「ひめゆりの塔」に日本で初めて慰霊のコーラスを捧げた。橋本憲佳のその後の努力により作詞者太田少尉が、福島県郡山市出身太田博であることが判明し、敗戦後30余年にして無名詩人は初めて故郷に詩人としての魂の安らぎを得たのではなかろうか。