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牛尾次郎氏指揮
別れの曲(うた・相思樹の歌)
作詞 太 田 博
作曲 東風平 恵位
目に親し 相思樹並木
ゆきかえり 去り難(がた)けれど
夢の如 疾(と)き年月の
往きにけん 後ぞくやしき
学舎(まなびや)の 赤きいらかも
別れなば なつかしからん
吾が寮に 睦みし友よ
忘るるな 離(さか)り住むとも
業(わざ)なりて 巣立つよろこび
いや深き なげきぞこもる
いざ去らば いとしの友よ
何時の日か 再び逢わん
微笑みて 吾等おくらん
過ぎし日の 思い出秘めし
澄みまさる 明るきまみよ
すこやかに 幸多かれと
幸多かれと
一連と三連は卒業生が在校生に、
二連と四連は在校生が卒業生に、
戦時下にあっては考えられない生徒の
心情に沿って交互に 別れを惜しみ、
励ましあう言葉が綴られています。
太田の詩作へのこだわりはさらに、
各連の二行目~四行目の頭韻を
「ゆ・わ・い・す」としており、本当は
「い・わ・い・す」ー祝いす
と作詩したかったと推敲の努力を語っ
ていたということです。
「別れの曲」の歌詞の中には表現を変えて二度の瞳が詠われており、「ひとみ」について太田の並々ならぬ熱い思いを感じることができます。他の作品「屋上の秋」(本サイト:童謡詩とユーモア)に「ひとみ」についての深い洞察を示す表現が見られます。
第一連の「目に親し」
第四連の「澄みまさる明るき
まみよ(瞳)」
最初と最後の瞳は互いに響き合って詩作全体を包み込み、隠された内なる喜びを明示しているように思えます。イギリスの歴史家カーライルに心を寄せる太田博にとって、「瞳」は秘められた人間の真の心と輝く叡智を映す鏡であり、ひめゆり学徒隊によってその信念が初めて現実の姿となって目前に表れた感激が、この歌の歌詞に隠されているのではないでしょうか。
ひめゆり学徒隊に捧げた詩作「防空頭巾」(本サイト:最後の詩集と魂の叫び)に見るように、太田は彼女たちが指揮官の指示を待つまでもなく、その意図を察して自主的に懸命に努力する姿に「ふかぶかと輝く叡智」を見出しました。
「相思樹の歌」は単に卒業式を待ち望む彼女たちの気持ちを美しく表現するのみならず、二度の『ひとみ』に託して、詩人が心のうちに密かに温めてきた理想の人間像を、現実の乙女たちの姿に見出した喜びと彼女たちを讃える深い愛情と祈りを含みもたせていることを伺わせます。

「卒業生に贈る詩」は学園や相思樹並木をを見る暇もない多忙な軍務の合間を縫って作詩されました。まだ校舎、学寮や相思樹並木を見たこともなく、学生たちから優しい少尉さんと慕われている太田の気持ちを思いやるかのように、東風平が太田を学園に招待しました。昭和20年1月のある日曜日、初めて学園を訪れた太田は、離島や遠隔地出身の少女たちが住まう学寮に案内されました。
学寮のとある一室で東風平は女生徒に、みんなで「別れの曲」を歌ってみなさいと話しました。その歌声を聞きつけて、折から寮に残って洗濯や繕い物をしていた乙女たちが群れ集い、休日の学園に時ならぬ大合唱が響き渡りました。直立不動の姿勢で廊下に立っていた太田は、いたく感動の面持ちでコーラスに聞き入っていました。
東風平のたくまざる友情と、乙女たちの太田に対する信頼が生んだ奇跡的な交歓の時間でした。純真な乙女たちの心を捉え、自分が作った詩作を通じて深く人間同士が結び合うことができた喜びとともに、詩人として生き抜こうと決心している自分の生き方が、正しい決断であることを確信し軍人としては経験し得ない詩人としての深い喜びと感動の中に太田は立っていたことでしょう。

校門前の相思樹並木・奥に二つの校門・那覇市歴史博物館提供02014186
「別れの曲」は歌詞に詠われた校門へと続く並木道をゆかりに、「相思樹の歌」とも呼ばれて、厳しい作業の中でまた学寮でのくつろぎの合間に歌われて、来るべき晴れの式典に心を躍らせながら彼女たちは歌い励まし合っていました。彼女たちの願いも空しく、1945年3月末、突然の命令により看護要員として動員され、那覇南部の南風原に急造された陸軍野戦病院へと移動します。ローソクが立つ兵舎の中での簡素な卒業式では「別れの曲」が歌われることはありませんでした。
日本軍が敗退するにつれ砲爆撃のただ中にさらされながら、ひめゆり学徒隊も傷ついた兵士を支えて沖縄南部への道を決死の思いでたどりました。食料や水もなくなり止む無く兵士の死体やうじ虫が浮く泥水をすすり、さらには米軍の攻撃で、傷つき、倒れていく友が続出します。
沖縄南端の摩文仁の丘、荒崎海岸さらには壕やガマの中で、次々と友人たちは倒れ、残されたものも壕の中でこの歌を歌いながら励ましあいかすかな生きる希望に願いを託しながらも、願いは叶わずに命を失っていきました。
作曲の東風平恵位も壕の中でこの歌を少女たちとともに歌いながら米軍の攻撃により短い人生を終えました。作詞の太田博もひめゆり学徒隊に寄り添うように、第三外科壕(現在の「ひめゆり平和祈念資料館」)からほど遠からぬ数百メートルの地で突撃とともに戦死しています。

ひめゆりの塔・第三外科壕に立つ
ひめゆり平和祈念資料館
平成22(2010)年太田博の母校である郡山商業高等学校同窓会は母校創立90周年記念に合わせて、「太田博遺稿集」を発刊しました。残された詩集「剣と花」以外にも「兜と花」「鎧と花」の二冊の詩集ノートがあることが知られていましたが、その行方は確認できませんでした。しかし、詩誌「北方」、「蒼空」、「蝋人形」、日記「随想」などを丹念に掘り起こすことによって、歴史に埋もれていた詩人太田博の人間性が浮かび上がってきて、思索に富みユーモアにあふれて詩作に躍動する快活な青年詩人のイメージがよみがえってきました。
「別れの曲(相思樹の歌)」の誕生についてはひめゆり学徒隊の方々の証言を頂き、失われていた歴史のひとこまを現実のものとすることが出来ました。
同年12月23日編集委員代表がひめゆり平和祈念資料館を訪問し、宮良ルリ館長外ひめゆり学徒隊の方々のご出席のもとに「別れの曲」を合唱し、「太田博遺稿集」の贈呈が行われました。
遺稿集連絡先:福島県立郡山商業高等
学校同窓会
電 話 : 024(922)0751
E-mail : koriyama-ch@fcs.ed.jp

「太田博遺稿集」贈呈式ーひめゆり学徒隊の方々と編集委員代表
