ー戦場に散った若き命の詩ー
作曲者ー東風平恵位 東京藝術大学音楽学部大学史史料室所蔵
別れの曲(相思樹の歌)は、青年詩人太田博とひめゆり学徒隊の少女たちとの戦場での奇跡的な出会いから誕生しました。第二次世界大戦末期の1944年、戦いは限りなく敗色を帯びて、沖縄にも近く米軍の上陸が危惧されていました。那覇港を空襲から守るため、野戦高射砲第79大隊第二中隊は那覇商工学校に本部を置き与儀・牧志など数カ所の高射砲陣地構築を急いでいました。折から学徒動員により、沖縄県立第一高等女学校、沖縄師範学校女子部(ひめゆり学徒隊)の乙女たちが太田博少尉の指揮する部隊に配属になり、慣れない土木工事に従事しました。
彼女たちの聡明さと真摯な仕事への取組みに感動した太田博は、詩人の心を揺り動かされて、翌年三月に控えた卒業式の餞(はなむ)けとして、「卒業生に贈る詩」と題した 一篇の詩を作りプレゼントしました。太田の詩は、心ならずも国威発揚と戦意高揚の勇壮な詩作に囲まれてきた引率の音楽教師東風平恵位に、忘れていた芸術の香りと真の青春の輝きを呼び起こす衝撃的な作品であったことでしょう。ひめゆり学徒隊の乙女たちが溌溂と生き、巧まずして放つ魅力を、太田博は軍人としてではなく詩人の目でしっかりと詩作に捉えました。
地元宮古島生まれで東京音楽学校(後の東京藝術大学)出身の東風平(こちひら)恵位がこの詩に曲を付して、間もなく迎える卒業式にちなんで「別れの曲」と名付けました。軍人と教師という、異なる立場を超えた24歳と23歳の二人の青年が心を通い合わせて、歴史に刻む名曲が誕生しました。
作業を終えた乙女たちが、急いで戻ろうとしていると、兵士たちがスコップや鍬を洗いなさいと命じます。太田少尉はそれを見て「点呼に間に合うよう早く帰しなさい」と兵を叱り彼女たちを学校に向かわせました。「優しい少尉さん」は彼女たちから自然とあふれ出てきた、太田への信頼を示す愛称でした。
作曲者ー東風平恵位・左から二番目ー東京音楽学校卒業時・奏楽堂まえにて:昭和18年9月
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牛尾次郎氏指揮
別れの曲(うた・相思樹の歌)
作詞 太 田 博
作曲 東風平 恵位
目に親し 相思樹並木
ゆきかえり 去り難(がた)けれど
夢の如 疾(と)き年月の
往きにけん 後ぞくやしき
学舎(まなびや)の 赤きいらかも
別れなば なつかしからん
吾が寮に 睦みし友よ
忘るるな 離(さか)り住むとも
業(わざ)なりて 巣立つよろこび
いや深き なげきぞこもる
いざ去らば いとしの友よ
何時の日か 再び逢わん
微笑みて 吾等おくらん
過ぎし日の 思い出秘めし
澄みまさる 明るきまみよ
すこやかに 幸多かれと
幸多かれと
一連と三連は卒業生が在校生に、
二連と四連は在校生が卒業生に、
戦時下にあっては考えられない生徒の
心情に沿って交互に 別れを惜しみ、
励ましあう言葉が綴られています。
太田の詩作へのこだわりはさらに、
各連の二行目~四行目の頭韻を
「ゆ・わ・い・す」としており、本当は
「い・わ・い・す」ー祝いす
と作詩したかったと推敲の努力を語っ
ていたということです。
「別れの曲」の歌詞の中には表現を変えて二度の瞳が詠われており、「ひとみ」について太田の並々ならぬ熱い思いを感じることができます。他の作品「屋上の秋」(本サイト:童謡詩とユーモア)に「ひとみ」についての深い洞察を示す表現が見られます。
第一連の「目に親し」
第四連の「澄みまさる明るき
まみよ(瞳)」
最初と最後の瞳は互いに響き合って詩作全体を包み込み、隠された内なる喜びを明示しているように思えます。イギリスの歴史家カーライルに心を寄せる太田博にとって、「瞳」は秘められた人間の真の心と輝く叡智を映す鏡であり、ひめゆり学徒隊によってその信念が初めて現実の姿となって目前に表れた感激が、この歌の歌詞に隠されているのではないでしょうか。
ひめゆり学徒隊に捧げた詩作「防空頭巾」(本サイト:最後の詩集と魂の叫び)に見るように、太田は彼女たちが指揮官の指示を待つまでもなく、その意図を察して自主的に懸命に努力する姿に「ふかぶかと輝く叡智」を見出しました。
「相思樹の歌」は単に卒業式を待ち望む彼女たちの気持ちを美しく表現するのみならず、二度の『ひとみ』に託して、詩人が心のうちに密かに温めてきた理想の人間像を、現実の乙女たちの姿に見出した喜びと彼女たちを讃える深い愛情と祈りを含みもたせていることを伺わせます。
「卒業生に贈る詩」は学園を見る暇もない多忙な軍務の合間を縫って作詩されました。まだ校舎、学寮や相思樹並木を見たこともなく、学生たちから優しい少尉さんと慕われている太田の気持ちを思いやるかのように、東風平が太田を学園に招待しました。
学寮のとある一室で東風平は女生徒に、みんなで「別れの曲」を歌ってみなさいと話しました。その歌声を聞きつけて、折から寮に残って洗濯や繕い物をしていた乙女たちが群れ集い、休日の学園に時ならぬ大合唱が響き渡りました。直立不動の姿勢で廊下に立っていた太田は、いたく感動の面持ちでコーラスに聞き入っていました。
東風平のたくまざる友情と、乙女たちの太田に対する信頼が生んだ奇跡的な交歓の時間でした。純真な乙女たちの心を捉え、自分が作った詩作を通じて深く人間同士が結び合うことができた喜びとともに、詩人として生き抜こうと決心している自分の生き方が、正しい決断であることを確信し軍人としては経験し得ない詩人としての深い喜びと感動の中に太田は立っていたことでしょう。
「別れの曲」は歌詞に詠われた校門へと続く並木道をゆかりに、「相思樹の歌」とも呼ばれて、厳しい作業の中でまた学寮でのくつろぎの合間に歌われて、来るべき晴れの式典に心を躍らせながら彼女たちは歌い励まし合っていました。彼女たちの願いも空しく、1945年3月末、突然の命令により看護要員として動員され、那覇南部の南風原に急造された陸軍野戦病院へと移動します。ローソクが立つ兵舎の中での簡素な卒業式では「別れの曲」が歌われることはありませんでした。
日本軍が敗退するにつれ砲爆撃のただ中にさらされながら、ひめゆり学徒隊も傷ついた兵士を支えて沖縄南部への道を決死の思いでたどりました。食料や水もなくなり止む無く兵士の死体やうじ虫が浮く泥水をすすり、さらには米軍の攻撃で、傷つき、倒れていく友が続出します。
沖縄南端の摩文仁の丘、荒崎海岸さらには壕やガマの中で、次々と友人たちは倒れ、残されたものも壕の中でこの歌を歌いながら励ましあいかすかな生きる希望に願いを託しながらも、願いは叶わずに命を失っていきました。
作曲の東風平恵位も壕の中でこの歌を少女たちとともに歌いながら米軍の攻撃により短い人生を終えました。作詞の太田博もひめゆり学徒隊に寄り添うように、第三外科壕(現在の「ひめゆり平和祈念資料館」)からほど遠からぬ数百メートルの地で突撃とともに戦死しています。
ひめゆりの塔・第三外科壕に立つ
ひめゆり平和祈念資料館
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うづめよ落ち葉 若き日の
愛知りそめし 人の名を。
つもれよ粉雪 わが頬の
熱きなみだの 凍るまで。
かくては春も めぐるころ
名なき雜(あれ)草 生ひいでむ。
ひらけよ小さき 花をもて
未完の詩句を 刻ましめ。
「蝋人形」第十二巻九号
(昭和一六年九月号)
死後45年を経た平成2年、太田博の母校・郡山商業学校(現郡山商業高等学校)の同級生一同と同窓会の協力により、太田博をしのんで「無名詩人の碑」とひめゆり学徒隊をイメージした「乙女の像」が母校の玄関前に建立されました。「無名詩人の碑」の碑銘の由来は、沖縄での絶筆となった詩「未完」の中で太田博が自らを命名したことによります。碑には、軍隊に入営前に作詩した自分への鎮魂歌ともいうべき「墓碑銘」が刻されています。