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別れの曲(うた・相思樹の歌)
ー戦場に散った若き命の詩ー
◎「別れの曲」の誕生
第二次世界大戦末期の1944年、日本の米国に対する戦いは限りなく敗色を帯びて、沖縄にも近く米軍の上陸が危惧されていた。那覇周辺を空襲から守るため、野戦高射砲第79大隊第二中隊は那覇商工学校に本部を置き那覇港を守備すべく数カ所の高射砲陣地構築を急いでいた。折から学徒動員により、沖縄県立第一高等女学校、沖縄師範学校女子部ひめゆり学徒隊の乙女たちが太田博少尉の指揮する部隊に配属になり、慣れない土木工事に従事しました。
彼女たちの純真さと真摯な仕事への取組みに感動した太田博は、詩人の心を揺り動かされて、翌年三月に控えた卒業式の餞(はなむ)けとして、「卒業生に贈る詩」と題した 一篇の詩を作りプレゼントしました。ひめゆり学徒隊の乙女たちが意図することもなく自ら滲み出した心情を、太田博は詩人の目でしっかりと詩作に捉え、たまたま少女たちの引率にあたっていた音楽教師の東風平(こちんだ)恵位がこの詩に曲を付して、間もなく迎える卒業式にちなんで「別れの曲」と名付けました。軍人と教師という、異なる立場を超えた24歳と23歳の二人の青年が心を通い合わせて、歴史に残る名曲が誕生しました。

    
*東風平恵位とともに与儀の高射砲陣地構築に
 ひめゆり学徒を引率した仲宗根政善によれ
 ば、太田と東風平は同年代のこもありよく
 二人で語り合っていたとのことです。
   
   
◎学園に響く歌
​「卒業生に贈る詩」は学園を見る暇もない多忙な軍務の合間を縫って作詩されました。まだ校舎、学寮や相思樹並木を見たことのない太田の気持ちを思いやるかのように、東風平が太田を学園に招待しました。学寮の一室で東風平は一人の女生徒を指名して、「別れの曲」を弾くように指示しました。その音を聞きつけて折から寮に残っていた乙女たちがオルガンの周りに群れ集い、時ならぬ大合唱が学園に響き渡りました。直立不動の姿勢で廊下に立っていた太田は、いたく感動の面持ちでコーラスに聞き入っていました。東風平のたくまざる友情と、乙女たちの太田に対する信頼が生んだ奇跡的な交歓の時間でした。純真な乙女たちの心を捉え、自分が作った詩作を通じて深く人間同士が結び合うことができた喜びとともに、詩人として生き抜こうと決心している自分の生き方が、正しい決断であることを確信し軍人としては経験し得ない詩人としての深い喜びと感動の中に太田は立っていたことでしょう。
◎命をつなぐ歌
「別れの曲」は歌詞に詠われた校門へと続く並木道をゆかりに、「相思樹の歌」とも呼ばれて、厳しい作業の中でまた学寮でのくつろぎの合間に歌われて、来るべき晴れの式典に心を躍らせながら彼女たちは歌い励まし合っていました。彼女たちの願いも空しく、​1945年3月末、突然の命令により看護要員として動員され、那覇南部の南風原に急造された陸軍病院へと移動します。ローソクが立つ兵舎の中での簡素な卒業式では「別れの曲」が歌われることはありませんでした。
日本軍が敗退するにつれ砲爆撃のただ中にさらされながら、ひめゆり学徒隊も軍とともに沖縄南部への道を決死の思いでたどりました。食料や水もないため止む無く死体が浮く泥水をすすり、さらには米軍の攻撃で、傷つき、倒れていく友が続出します。
沖縄南端の摩文仁の丘、荒崎海岸さらには壕やガマの中で、次々と友人たちは倒れ、残されたものも壕の中でこの歌を歌いながら励ましあいかすかな生きる希望に願いを託しながらも、願いは叶わずに命を失っていきました。作曲の東風平恵位も壕の中でこの歌を少女たちとともに歌いながら短い人生を終えました。作詞の太田博もひめゆり学徒隊の第三外科壕(現在の「ひめゆり平和祈念資料館」)からほど遠からぬ数百メートルの地で全員突撃とともに亡くなっています。

​作詞者ー

太田博・銀行時代

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​作曲者ー東風平恵位・座位中央ー東京音楽学校卒業時・奏楽堂まえにて

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ひめゆりの塔・第三外科壕に立つ

 ひめゆり平和祈念資料館

  別れの曲うた・相思樹の歌

           作詞 太  田    博  

           作曲 東風平 恵位 

 

    目に親し 相思樹並木 

 

    きかえり 去り難(がた)けれど

 

    の如 疾(と)き年月の 

 

    きにけん 後ぞくやしき

 

 

    学舎(まなびや)の 赤きいらかも 

 

    れなば なつかしからん

 

    が寮に 睦みし友よ  

 

    るるな 離(さか)り住むとも

   

    業(わざ)なりて 巣立つよろこび 

 

    や深き  なげきぞこもる

 

    ざ去らば いとしの友よ  

 

    時の日か 再び逢わん

 

 

 

    微笑みて  吾等おくらん 

 

    ぎし日の 思い出秘めし

 

    みまさる 明るきまみよ 

 

    こやかに 幸多かれと

 

        幸多かれと

             

      

      一連と三連は卒業生が在校生に、

     

     二連と四連は在校生が卒業生に、

 

                戦時下にあっては考えられない生徒の

 

     心情に沿って交互に 別れを惜しみ、

 

     ましあう言葉が綴られています。

    

     

        太田の詩作への推敲はさらに、

 

     各連の二節目~四節目の出だしを

 

              「ゆ」「わ」「い」「す」としており、

 

                本当は「い・わ・い・すー祝いす」

 

                と作詩したかったと語っていたという

 

     ことです。

     

 

校門前の相思樹並木ー戦前
© Copyright
02004628: 那覇市歴史博物館提供
二つの学校の校門ー戦前
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02004617: 那覇市歴史博物館提供
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